中原中也「一つのメルヘン」
散文を好む私だが、少年期にある女性の影響で中原中也を知り、いくつかの詩を諳んじる様になった。
甲羅を経た今では断片的にしか思い出せないが、「月夜の晩に、拾ったボタンは どうしてそれが、捨てられようか?」などのフレーズは心にしみる。
ある日、教科書にも載っていた「一つのメルヘン」を何気に思い出そうとして、冒頭の句が「秋の日」ではなく「秋の夜」であることに気付いて愕然とした。
確か陽がさらさらと射していたはずなのに。
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
夜なのに、陽が射している。
この矛盾に今までどうして気付かなかったのだろう。
詩だからこういった矛盾があってもかまわないという乱暴な意見もあるだろうが、考えた末に私なりにひとつの解決を得た。
「はるかの彼方」という語句から、遠く離れた景色ととらえることもできる。
しかし、それなら詩人がわざわざ「秋の夜」と表現する必要はない。「秋の日」でいい。
私は、これは夢なんだと思う。
だから「秋の夜」なんだと。
「さらさらと」と射す陽、「さらさら」と音をたてる陽、「さらさら」と流れている水。
同じ「さらさら」という言葉を変調しながら聴かせるテクニックは、まるでクラッシックの名曲を聴いているように心地よい。
蝶は何かの化身なのかもしれない。
作者自身か、あるいは思う対象があったのか、あるいはそのまま蝶なのか・・・
ただ、「一つのメルヘン」を読む私にとってこの蝶は、詩によって相手の心に潤いをもたらす中原中也という存在そのものである。
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