将棋備忘録

殴り書きの備忘録なので、読みづらい点はどうかご容赦を!

アルベール・カミュ「ペスト」

コロナ禍が世界を覆っている今日の状況を先取りしたような、アルベール・カミュの小説「ペスト」がNHK「100分で名著」で取り上げられ、ベストセラーになっている。
私にとって懐かしい書物だ。


思春期の頃、ドイツ文学のゲーテ、ロシア文学のドストエフスキー、アメリカ文学のサリンジャーなどに夢中になった。とりわけ第二次大戦でナチス・ドイツの占領下にあった苦渋の歴史を持つフランス文学は面白かった。
古くはマルセル・プルースト「失われた時を求めて」、ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」(ロラン全集は、図書館の一番目につくところにあった。ロランの影響でベートーヴェンとクラッシック音楽が好きになった。)エマニュエル・トッドの祖父になるポール・ニザンの「アデン、アラビア」やアンドレ・マルローの「征服者」「王道」「人間の条件」、そしてカミュだ。


カミュが「ペスト」で描きたかったのは、現実の不条理さと、それに立ち向かう人間の姿。
ちょうどナチスに抵抗したレジスタンスのように
あるいはゼウスに反抗して追放されたシーシュポス(シジフォス)の岩を運ぶさまのように・・・不条理さを人間の原罪といった宗教的解決に求めず、明晰な意識を持ってシーシュポスは転がり落ちた岩を再び運ぶ。


カミュの淡々とした筆致には、「事象そのものへ」と現象の記述を希求したフッサール哲学(現象学)の影響が窺えた。
この現象学から「実存は本質に優先する」という実存主義が生まれ、カミュはサルトルと並んで実存主義の旗手といわれた。


そして私は哲学にのめり込んだ。
「なぜこの世界に放り出され、そして消えていかなくてはならないのか?」
不安でたまらなかった。
同世代の人間が何の問題意識も持ってない様子なのが不思議だった。
解答を見つけるため、学校の図書館の哲学書を読みふけった。
授業はさぼり、図書館へ行くためだけに学校へ通っていた。
校長が薦めたヒルティの「幸福論」や「眠られぬ夜のために」は、宗教臭が強すぎて受け入れられなかった。「不条理なるがゆえに信ず」という考えは理解の外だ。
日本の古典も読んだ。「武士道とは死ぬこととみつけたり」の言葉で有名な「葉隠」の処世術に堕した内容に失望した。
ウィトゲンシュタインの深刻な相貌に心惹かれたが、あまりにも難解すぎた。
そんな中巡り会ったのが、20世紀の知の巨人、ハイデガーの「存在と時間」。
彼の実存主義に心を打たれ、その源流となるフッサールこそが本当の哲学だと感じた。
後継者のメルロ・ポンティにも心酔した。


様々な賢者達の言葉、いわく「悲しいから泣くのでなく、泣くから悲しいのだ」いわく「神が人間を創ったのでなく、人間が神を創ったのだ」いわく「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」


迷妄と錯誤の中で生きているわれわれにとって「意識とはつねに何かについての意識である」というフッサールの言葉は、まさに蒙を啓くものであった。ノエマ、ノエシス、意識は決して対象なしには存在しえない。(←意識の指向性)


これが弟子ハイデガーの存在論になってくると少し変質してくる。
主著『存在と時間』において「世界・内・存在」が「内・存在」として語られるときに「世界」はどこかへ置き去られていくように感じるのは私だけだろうか。
存在論は「対自」と「即自」という二者択一によって語られるようになり、「実存は本質に優先する」というサルトルの言葉が生まれる。しかしやはりそこには「世界にある」という人間の姿が欠けているように感じる。


フッサールの真の継承者はメルロ・ポンティであろう。(後述) 


恥ずかしい思い出話はこの辺りで留めたい。
往時からの私の夢は、文学(P・K・ディック風のSF)と哲学とヘルマン・ヘッセに対する評論を著すこと。
このまま夢で終わるのか。