将棋備忘録

殴り書きの備忘録なので、読みづらい点はどうかご容赦を!

古都

京都三大祭りの一つに数えられる祇園祭は、明治時代までは「祇園御霊会(ごりょうえ)」と呼ばれ、平安時代から伝わる、怨霊を鎮める儀式でした。


京都は、三方向に山を抱えています。東山、北山、西山です。
それらの山が、京都盆地に住む人々に、常に東西南北の方向を教えてくれます。
なお、今から1225年ほど前の794年に造られた平安京は、今よりずっと西の方角にありました。
平安京を設計するにあたり、弟である早良親王の怨霊を恐れた桓武天皇は、鬼門の方角に比叡山を戴き、帝(ミカド)がお住まいになられる内裏の北東部には鬼門除けの「欠け」を作るなど細心の注意を払いました。
現在の京都市のセンターストリートである「烏丸通り」は、平安京では東の果てにあった「烏丸小路」という幅4丈(約12メートル)くらいの、当時としては小さな通りだったのです。
そして「烏丸通り」よりずっと西の方に「千本通り」という南北路がありますが、これがかつての平安京のメインストリートである「朱雀大路」に相当します。道幅はなんと28丈(約84メートル)はあったと推定されています。
その「朱雀大路」の南端に設けられていたのが、芥川龍之介の小説で有名な「羅生門」というゲートです。正しくは「羅城門(ラジョウモン・ラセイモン)」と書くようで、昔、中国や朝鮮では都を囲う城壁を「羅城」と呼んでいたことに拠るようです。現在、そこに「羅城門」というバス停があります。
地図で見ると、「朱雀大路」の左半分にあるのが右京で、右半分にあるのが左京となっています。右と左の位置関係が逆転しているので不思議に思いますが、都の最北端中央に置かれている内裏から帝が南の方を見た時の左右によってこのように名付けられているのです。ちょうど、お雛様の「右近の橘、左近の桜」というのが、帝から見た位置をいうのと同じですね。
桓武天皇の子の嵯峨天皇の時代には、平安京を唐の都になぞらえ、左京を「洛陽城」、右京を「長安城」と呼んでいました。
そして平安京の碁盤の目の一番北の辺は「北京極」と呼ばれ、そこに「玄武」という頭が蛇で胴体が亀の生き物を守り神として置きました。対する南の辺を「南京極」と呼び、「朱雀」なる鳥の守り神を置き、さらに東の辺を「東京極」と呼んで「青龍」を、西の辺を「西京極」と呼んで「白虎」を置きました。いわゆる「四神(四聖獣)」ですね。
これらの守り神は、平城上皇の復位及び平城京復都を図った「薬子の変(平城太上天皇の変)」の教訓による備えで、裏には嵯峨天皇が庇護した空海の存在があったかもしれません。
古都における怨霊伝説の元祖というべき菅原道真が亡くなったのが10世紀初頭、そして紫式部が活躍したのは10世紀末から11世紀初めにかけてでしたが、その頃には「長安城」と呼ばれた右京の方は、すっかりさびれました。最大の原因は、保津峡(ほづきょう)を通って嵐山から南へと流れていく桂川の氾濫でした。
そのため右京に住んでいた人々は次々に住まいを棄て、東の左京すなわち「洛陽」のエリアに移りました。西半分の「長安地域」は、「人家はまばらで幽境のごとし」と語られるまでに荒廃し、平安京の中央大通りであった「朱雀大路」は、いつのまにか洛陽の西の辺境という位置づけまでに落ちぶれました。「朱雀大路」のメインゲートとなっていた「羅城門」も、芥川が『羅生門』に描いたような、死人が無残に打ち棄てられ、その死体から物を盗る鬼畜が横行するようなありさまでした。
結果、平安京の東半分にあたる洛陽エリアだけが都の体裁を保ったため、そこを中心にして「洛中」「洛外」の概念が生まれ、洛外は方角によって「洛東」「洛西」「洛北」「洛南」と呼び分けられました。
この段階で、京の都の規模は、桓武天皇の設計のおよそ半分に縮小してしまいました。


さらに全京都を戦火の炎で焼き尽くした応仁の乱(1467~1477)によって、京都は南北に隔てられ、北を「上京」南を「下京」と呼ぶようになりました。
京都の人は、今でも「先の戦争」というと応仁の乱のことを指します。
その後、法華宗徒と延暦寺が争った天文法華の乱(1536年)が起こり、これにより上京の三分の一が焼けてしまいました。焼け出された民衆は、寺が手を出せない内裏に逃げ込み、内裏の人達もそれを受け入れたといいます。


そうした京都が立ち直ったのは、群雄割拠の戦国時代を勝ち抜いてきた織田信長の次の覇者、豊臣秀吉の時代からでした。
秀吉の寄進によって、織田信長が焼き払った比叡山、本願寺はじめ多くの寺社がかつての繁栄を取り戻すようになりました。
人たらしの天才である豊臣秀吉は、こうやって織田信長と敵対していた宗教勢力を味方につけました。
しかし、その後覇者が交代し、徳川幕府の時代になると、新興都市江戸が繁栄する一方で、京都は長い停滞の時代を迎えます。


時は移り、幕末、長州藩士による蛤御門の変(禁門の変)によって京都は大きなダメージを受けました。長州藩よりも一橋慶喜の命により会津藩が行った焼き討ちの方が損害が大きかったといわれます。
第一次長州征伐の後、それまで幕府を中心とする雄藩連合体制を目論んでいた薩摩藩の西郷隆盛は、慶喜の真意が幕府による中央集権体制にあることを知り、長州と同盟して倒幕へと大きく舵を取ります。
鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が静岡で謹慎すると、多くの旗本が付き従ったため、江戸は空き家だらけになりました。それに目をつけた大久保利通によって、廃墟となった京都を棄て、江戸から名を変えた東京へ遷都します。お金のない新政府には京都を復興する力はありませんでした。
こうして京都は主を失ってしまいました。


その後の京都の復興には、京都府第三知事・北垣国道による琵琶湖疏水が大きな役割を果たしました。琵琶湖の湖水を西の京都に流し、疏水の水を使って新しい工場を興し、疏水を渡る舟で物資の行き来を盛んにしようとする事業でした。


第二次世界大戦では、京都の被害は比較的軽微でした。アメリカ軍が京都の文化財に配慮したわけではありません。原子爆弾投下の候補地だったので、その効果を正しく計測するための配慮でした。
しかし、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが、「京都を原子爆弾で破壊すると日本人の敵愾心を煽り、後の占領統治に支障が生じる」と判断して投下を取り止めました。スティムソンは京都旅行の経験があり、京都がどういう場所か知っていました。


歴史都市京都を破壊したのは、ほかならぬ京都人でした。
終戦前の昭和20年3月に「戦時家屋強制疎開」が行われ、堀川通、御池通、五条通などの町家は全て取り壊されました。なぜか取り壊しを免れたのは、祇園祭の山・鉾を守っている区域でした。何か忖度があったのかもしれません。


かつての京都では、祇園祭の山・鉾よりも高い建物はありませんでした。しかし、戦後の高度成長期には、経済至上主義の流れに従って、次々とダークトーンの二階建ての町家が安っぽい光を放つビルやオフィスに取って代わりました。
現在の山車は、背の高いビル街の中、熱いアスファルトの上を進んで行きます。
祇園祭が何か滑稽な催しに墜ちてしまったような違和感を感じるのは私だけでしょうか。