【読書ノート】歴史
大学受験
現実逃避と、わかってはいるのですが
日本の古典である記紀のことを殆ど知らないのが気にかかって
色々調べています。
大学受験では、社会の選択に迷いました。
この世界の中にあって
地理は、いわば「空間の学問」
歴史は、いわば「時間の学問」
記憶することを考えたら地理の方が断然オトクちゃん。
それでも私は、歴史を選択しました。
歴史が好きなのです。
「変わらない過去」を調べて
「分からない未来」がどうなるというの?
しかし歴史に対する理解は、われわれにはまだまだ乏しいの。
やっぱり私は、文化系masochist(笑)
ベヴァン博士がアーノルド・J・トインビーに宛てた手紙
わたしは、われわれの前途に横たわっている危険は無政府状態ではなくて、独裁制であり、精神の自由の喪失、全体主義国家、それも多分世界的な全体主義国家であると思う。
国際間の紛争や階級戦の結果として、局部的にまた一部的に無政府状態が現出することがあるかも知れないが、それは過渡的な局面に過ぎない。
無政府状態というものは本質的に弱いものであって、無政府的な世界では、合理的な組織と科学的な知識をそなえた強固に組織されたグループが現れれば、他の者を支配することができる。
そして、世界は無政府状態に代わるものとして、独裁政治を歓迎するであろう。
そうなると、世界は精神的"化石"状態の時期にはいるおそれがあるが、それは人間精神の高次の諸活動にとっては、まさしく死を意味する恐ろしい事態である。
ローマ帝国の化石化やシナの化石化も、これにくらべればまだましな方であろう。
なんとなれば、[われわれの場合には]支配的集団がその権力を行使するために、はるかにすぐれた科学的手段を所有すると思われるからである。」
(あなたはマコーレーの『歴史』論をご存じであろうか。
かれは、蛮族の侵入は、化石状態を打ち破ったのであるからして、結局においてしあわせであったと論じている。
『ヨーロッパはシナの運命を免れるために、千年間の野蛮に堪えねばならなかった』。
ところが、未来の世界全体主義国家を打破する野蛮種族はいないであろう。)
トインビー『歴史の研究Ⅲ』長谷川松治訳(社会思想社「現代教養文庫」)p.21~
本郷和人『空白の日本史』
「佐々木希さんの旦那の浮気」、「ジャニーズ手越さんの脱退」。
ここれらは最近(2020年6月)のニュースで再三取り上げられ、話題をさらっている。
日本史においてもよく話題に上がるのが「下山事件」「坂本龍馬暗殺」「本能寺の変の黒幕探し」。
これらを歴史家である徳川家19代目当主徳川家広さんは、「日本三大どうでもいい事件」、取り上げる自体バカバカしいとおっしゃっているらしい。
そうなんだ!
例えば「下山事件」。戦後の混乱期、国鉄職員だった下山定則は、朝鮮人・台湾人から専用車両を求められ、挙句の果てに出発が遅れたといって集団暴行を受け睾丸破裂の重傷を負った。
東大法学研の古畑種基がこの古傷を新しい傷と誤診し、死後轢断の根拠とした。
「坂本龍馬暗殺」については、犯人も分かっていて謎も裏もない。
坂本龍馬という存在自体が薩摩藩の走狗に過ぎず、どこまで歴史的に重要な存在であったか疑わしい。
薩長同盟の真の立役者は、薩摩藩家老の小松帯刀。
この人の実行力と果断さは、長州の高杉晋作に匹敵すると思う。
「本能寺の変の黒幕探し」も無駄。
呉座勇一『陰謀の日本中世史』を一読してほしい。
この書では馬鹿馬鹿しいと断りながらこれら大衆受けする話題に触れながら、同時に、大衆受けしそうもない話題、すなわち日本の国の在り方に関わる「日本建国」や、「天皇家」にまつわる三種の神器や神道など、タブー視されている問題について深いメスを入れる。
風貌や発言から奔放に見える著者だが、これくらい真面目な人はいない。
そして私も敬愛する網野善彦先生に触れているのがうれしい。
両忘(加藤廣『信長の棺』)
冒頭で「両忘」という言葉が語られる。
死を忘れると同時に生も忘れる、という意味の禅用語らしい。
生と死だけでなく対義するものすべてについて述べられている。
↓HP「愛知学院大学 禅研究所」より勝手に引用。
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/word/aword/02.html#top
「両忘」ということばがあります。二つのことを忘れることを意味します。是と非、善と悪、美と醜、愛と憎など両者の対立を忘れ去ることをいいます。しかし、現実にはわたしたちは、これらの両者の対立、区別を離れることができかねるのが実状です。
現実の生活では、わたしたちはその都度、二つのことのいずれかを選び取って生きています。“あれかこれか”と自問自答して、二者択一に傾斜しつつ生きています。生きるということは、ある意味で行為的世界に身を置くことですから、止むをえないことだともいえます。また、このことがさして支障をきたさない場合も、日常では多くあることも事実です。
しかし、人生の局面には、時としてのっぴきならない非日常的な事態に直面することもあります。是とすべきか非とすべきか、進むべきか退くべきか、などの文字通り進退窮まる事態は、時としてわたしたちの生存の根幹をも揺がしかねない状況を惹き起こすこともあります。 中国宋代の儒者、程明道のことばに、「内外両忘するに惹かず。両忘すれば則ち澄然無事なり」とあります。両者の相対的対立を断ち切ったところに、おのずから明鏡止水のすがすがしい絶対の境地が展開してくることを教えています。
しかし、この実現には肝心な一事が求められます。それは“自己を忘れる”という決意です。
ヘーゲルは、正→反→合というように、対立するものを一旦離れ、新しいものを生み出す方法を弁証法と名付けた。
フッサールは、この「判断停止」をエポケーと呼び、現象学を生んだ。
さらにメルロ・ポンティはこれを推し進め「両義性の哲学」を著した。
驚くべきことに東洋精神の極致といえる「禅」の世界は、西洋哲学に継承されている。
加藤廣『秀吉の枷』
今まで疑問に思っていたことがある。
なぜ百姓あがりの秀吉が、商人並みに計算力に優れ、職人並みの土木技術を持ち、さらに百姓に対して冷たかったのか。
またなぜ秀頼を自分の子と信じ、溺愛したのか。
そんな疑問が前作『信長の棺』と『秀吉の枷』で氷解した。
秀吉を扱った本としては、山田風太郎の『妖説太閤記』とともに秀逸。
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