将棋備忘録

殴り書きの備忘録なので、読みづらい点はどうかご容赦を!

【読書ノート】文学・哲学

糸谷新竜王とハイデッガー

 糸谷哲郎新竜王は、小学生の頃に司馬遼太郎を読破し、そしてエラリー・クイーンやアガサ・クリスティ、『館』シリーズの綾辻行人さんや有栖川有栖さんの作品を好んだというミステリファンで、そのあたりの読書遍歴は私と全く同じですね。
 若い頃の竜王は、(私の憧れの)京都大学の「ミス研」を目指していたのではないでしょうか?同大学には詰将棋作家・若島正さんもいらっしゃいますし・・・
 現在は、大阪大学大学院でドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーなどを研究しているそうです。

 マルティン・ハイデッガーは、(カントやヘーゲルなどに代表される)それまでの伝統的なドイツ観念論哲学から一線を画し、「世界・内・存在」としての個(現存在)を探求し、「20世紀の知の巨人」と呼ばれた哲学者です。ハイデッガー本人は否定しましたが、実存主義の先駆者で、『存在と時間』という主著があります。
 ちなみにハイデッガーに対して(学問以前に日常的に直感される)「生活世界」の学を示唆したのが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を著したエドムント・フッサールでした。ハイデッガーほど高名ではありませんが、私にとって最も興味深い哲学者です。

 哲学に限らず、近代思想は観念的になりすぎて、生活世界や個を軽んじる傾向にありました。
 経済学では、「長い目で見れば、市場はやがて完全雇用を実現させるだろう。」とアダム・スミスの「神の見えざる手」を信奉する古典主義経済学者に対して、「お説はごもっともだが、長い目で見れば、われわれはみんな死ぬ。」とジョン・メイナード・ケインズは反論しました。
 物理学の世界では、ヴェルナー・ハイゼンベルクが、「不確定性原理」を導き、これまで見失われていた観測者の視点に光を当てました。
 これら三人は、逆コペルニクス的転回というべき個の復権によって、(近代から)現代の扉を開けるのに大きく貢献しました。(個を置き去りに発展した)近代思想が行きついた第一次大戦の惨禍を目の当たりにしたことが、その背景にありました。
 しかし、彼らは三者三様に第二次世界大戦に巻き込まれていきます・・・
 

 さて、現実の生活世界では、残念ながら個人が主体性を発揮できる機会は、そう多くはありません。
 しかし将棋は、間違いなく主体性を発揮できる場です。
 ハイデッガー流に言えば、限られた時間の中で、(すでに自分が置かれている)「被投性」から(本来的な生に向けて)「企投」する場、といったところでしょうか?
 こう考えると、糸谷新竜王が、ハイデッガー哲学を選んだのは納得できますね。

サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』


中には「ザ・パーフェクトデイ・フォー・バナナフィッシュ」というグラス家の長男、シーモア(他の作品にも登場する重要な登場人物)の衝撃的な死を描いた小品もある。


その作品集の中に「笑い男」という作品があったらしい。
らしいというのは、今、その内容を思い出せないからだ。


今も、ほとんど顧みられないまま、この本のペーパーバックが本箱の片隅にあるはずだ。若き日の記念品として。


なぜ急にこの本のことを思い出したかというと、発端は、たまたま観ていた『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(こうかくきどうたい スタンドアローンコンプレックス)の最終回。この作品がいかにサリンジャーに拠っかかっていたかを知った。サリンジャーは、多感な頃、同級生のH君(今は立派な開業医。)が「ライ麦畑につかまえて」を紹介してくれて、完全にハマった。


そして次に買ったのが「ナインストーリーズ」のペーパーバックだった。英語が苦手だったこともあって、勉強がてら買ったものだ。幸い、ほとんど辞書を見ずに読めた。
人に見られるのが恥ずかしいので、屋上へ続く行き止まりの階段の踊り場に自分だけの空間を見つけて、授業の合間にこっそりと読んだものだった。
懐かしい♪機会があれば読み返してみたいものだ。



「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes.」


(僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ。)