将棋備忘録

殴り書きの備忘録なので、読みづらい点はどうかご容赦を!

言葉=ヒトによる時間と空間の征服

その数字の根拠は?(その1):なぜ1ドルは360円だったか?

子供の頃好きだったクイズに「(車の)ハンドルはいくらでしょう?」というのがあった。
答えは180円。
1ドルが360円だったので、半ドルは180円ということだ。

お隣の中華人民共和国は未だにドルペッグ制といって為替レートを恣意的に固定しているが、敗戦後の日本も対ドルの為替レートは固定されていた。
吉田内閣の折にGHQが1ドル=360円のレートを定めた。
当時の蔵相は、宏池会の創始者である池田勇人。
推論だが、「円は360°だから360円ではどうか?」というような交渉の成果だろう。
貿易立国としての日本の方向性を決めた優れた決断だった。
現首相の岸田文雄は宏池会の流れを汲んでいる。
果たして現在の過剰な「円安」をどう感じているのか?

病魔に侵された池田勇人に指名されて次の首相となっのが佐藤栄作。
国内では「非核三原則」を掲げたが、裏では核の持ち込みを容認した。
ノーベル平和賞を受賞したが、日本の平和にどこまで寄与したのか?
1967年、ベトナム戦争の傷跡に苦しんだアメリカのニクソン大統領は、同盟国に防衛努力を訴えた。
そして訪米した佐藤栄作に「沖縄米軍の核を日本で肩代わりしないか」と持ち掛けた。
ちょうど中華人民共和国が水爆実験した折だった。
しかし、佐藤栄作は「非核三原則」の官僚作文で応え、失望したニクソンは対ソ連の同盟国として中華人民共和国を選択した。
いわゆる「ニクソンショック」だ。
首相は田中角栄に代わっていた。
官僚出身の佐藤栄作内閣による「待ちの政治」に飽いた国民は、1972年、次の総理大臣に官僚出身の福田赳夫でなく党人派の田中角栄を選んだ。
ちなみにその時の角栄のキャッチフレーズが「決断と実行」だった。

「ニクソンショック」に対する田中角栄の決断は、台湾を切り捨てて中華人民共和国に接近するという愚策だった。
チベットの害獣パンダのお礼に多額のODAを供与するという、悔やんでも悔やみきれない方向転換、戦後最大の過ちだ。
なぜこんな人物を高く評価する人がいるのか分からない。

もうひとつの「ニクソンショック」がドルの金兌換の廃止と変動相場制への移行だった。
1ドル=360円の夢は終わった。

さて、宏池会の後継者である岸田首相は今日の円安にどう取り組むのだろうか?
今日の経済状態では黒田発言の通り、利上げは問題外。
やるならドル売り・円買いという為替介入だが、どこまで必要なのか?

米価が上がると町民が困ると下げ介入し、米価が下がると農民が困ると上げ介入した徳川吉宗※のように「令和の米将軍」と揶揄されないようにしてほしい。
ハンバーガーに代表されるような質が悪く高額になった海外の食糧を買わなくても、日本産の食糧の方が遥かに美味しいし、安全だ。
石油が高いと今更言っても、化石燃料依存に限界があることは、既に周知の事実だ。
「首都直下型地震」や「少子化」など心配すべき問題はほかにもある。

ロシアのウクライナ侵攻、中華人民共和国の尖閣・台湾への武力介入示威、北朝鮮のミサイル実験。
こういった情勢を受け、日本の防衛力upが安全・安心のための喫緊の課題となった。

そんな中、冷や水を浴びせられたようなニュースが飛び込んできた。
「防衛費の対GDP比2%超え」を推進していた島田和久防衛省事務次官が退任。
後任となる鈴木敦夫氏は、島田次官と同期。異例の人事だ。
なぜ交代させる必要があったのか分からない。

この上、参院選後の内閣改造で岸信夫防衛大臣が交代となれば、「対GDP比2%超え」は、なし崩しになる恐れがある。
日本がウクライナにならないよう、岸田首相の「決断と実行」を注視しなければならない。
敗戦は一度で懲り懲りだ。

※歴史教科書では「中興の祖」「享保の改革」などと持ち上げられる徳川吉宗だが、大岡忠相を抜擢したことが最大の功績で、今日知られる善政のほとんどは大岡によるものが大きい。

質素倹約を旨とした緊縮財政を行った結果、需要不足によるデフレで経済を疲弊させた。

また農民に対しては『胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり』と苛政を行った。
当時の税制は「五公五民」である。

高名な江戸時代の三大改革は、すべて経済学的に見ると失政。
これを教科書が高く評価するのは「欲しがりません勝つまでは」という戦前の教育の名残り。
行き過ぎたインフレはもちろんマイナスだが、2~3%くらいのインフレが雇用にプラスなのは経済学でフィリップス曲線を学んだ者なら皆知っている。
平成、日銀の生んだデフレが「失われた30年」となったことを忘れてはならない。

文化が栄えた元禄期や文化文政期を範とすべきで、それぞれの時代の経済政策を担った勘定奉行・荻原重秀や老中・水野忠成などはもっと評価されていいかもしれない。

その数字の根拠は?(その2):御成敗式目(北条泰時)

江戸時代に至るまで慣習法として人々のモラルに影響を与えた「御成敗式目」だが、実は現代にも生きている部分がある。
第8条前段 

「御下文を帯ぶると雖も知行せしめず、年序の経る所領のこと 右、当知行の後、廿ヶ年を過ぐれば、大将家の例に任せて理非を論ぜず改替に能はず。」


民法第162条(所有権の取得時効)
「20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。(後略)」
「時効取得」の20年という数字は、鎌倉時代に確立していたのだ。

「御成敗式目」は、いうまでもなく北条泰時の事績だが、最初は35条だったのが、後に付け加えられて51条になった。
51条という中途半端な数字には理由があると思う。
それまで人の規範を律していた聖徳太子(厩戸皇子)の「17条の憲法」が北条泰時の念頭にあり、倍数の51条にしたと考えるのは穿ち過ぎだろうか?

神話とローマ皇帝に由来する「月」の名前


いうまでもないことだが、一日の「日」は、太陽が昇って沈み再び昇るまでの単位。「月」も同じで、月が新月から満月(15夜)になり、それが欠けていって見えなくなるまで30日を要することから名づけられた。

英語も同じで、monthの語源はmoonだ。
英語の月の名前が変わっていて、中学生の時に覚えるのに苦労した。

  •   1月 January ・・・・時の神ヤヌス
  •   2月 February・・・・贖罪の神フェブルアリウス
  •   3月 March・・・・軍神(農耕神)マルス
  •   4月 April・・・・美の神アフロディーテ
  •   5月 May・・・・豊穣の神マイヤ
  •   6月 June・・・・結婚の神ユーノー
  •   7月 July
  •   8月 August
  •   9月 September・・・・7番目
  • 10月 October・・・・8番目
  • 11月 November・・・・9番目
  • 12月 December・・・・10番目

月の名の起源がローマ帝国にあるということを聞いたことのある人も多いだろう。
8月のオーガストは、ローマ皇帝アウグストゥスから来ているとか。
7月のジュライは、ジュリアス・シーザーが7月生まれだったからとか。


シーザーはエジプトに遠征し、クレオパトラの美しさとともに暦の正確さに驚いた。
ローマは元々太陰暦を使用していたが、エジプトは太陽暦を使用していた。
その正確さに驚いて、それを丸パクリしたのがローマ暦(ユリウス暦)。
その時、ちゃっかりと自分の名をつけた。
暦だけでなく、月の名にも。


狼に育てられたロムルスがローマを建国した時、ローマの暦には10の月しかなく、一年の始まりは農耕が始まる3月からだった。
二代目王が1・2月を創設した。1月に時の神ヤヌスの名を、2月 に贖罪の神フェブルアリウスの名をつけたのは、時を司る神をトップに持ってきて、次に前年を反省するため贖罪の神を持ってきた。種まきの3月には、軍神(農耕神)マルスの名をつけた。4月は恋の季節、美の神アフロディーテの名をつけ、恋をして子供ができたため5月には豊穣の神マイヤの名をつけ、6月に結婚の神ユーノーの名をつけた。「デキ婚」はこの時代からあった。
「ジューンブライド」はここから来ている。
神の名も途絶え、7月からは〇番目の月と呼ばれていた。
それを独裁者たちが自身の名をつけたが、今日まで生き残っているのはアウグストゥスまで。ネロも自身の名をつけたらしいが、嫌われていたためか一般には使われなかった。
9月は昔からの「7番目の月」の名で呼ばれ、10番目までで終わった。
これが現代に受け継がれている。
日本のように一番目の月から順番に数字で呼ぶ方が合理的と思うが、西欧人はそう考えなかったようだ。
「フランス革命」で生まれた「革命暦」もかえって煩雑なためナポレオンによって廃止された。「テルミドール(熱月)の反動」のように歴史に名を残しているだけだ。


日本で「太陽暦」が導入されたのは明治維新から。
暦が急に変わって社会は混乱した。
ドサクサで公務員の給与は2か月未払いになった。
金がなかった維新政府には、その狙いがあったかも。


さて、「完全数」というのをご存じだろうか?
その数自身を除く約数の和が、その数自身と等しい自然数。
例えば 6 (= 1 + 2 + 3)、28 (= 1 + 2 + 4 + 7 + 14) や496が完全数である。
『聖書』の研究者は、最初の完全数が 6 なのは「神が6日間で世界を創造した」こと(天地創造)、次の完全数が 28 なのは「月の公転周期が28日である」ことと関連があると考えていた。


「関西」という言葉は首都移転から生まれた。

私たちのほとんどは、理解せずに言葉を使っている。
天武天皇の時代に「日本」という言葉が生まれたとされるが、どこまでを日本として認識していたのだろうか。
天武は東国を警戒して三か所に関所を設けた。福井県の「愛発関」、岐阜県の「不破関」、三重県の「鈴鹿関」である。これらより東を「関東」と呼び、自分たちの住むところが「日本」だった。
「関西」という言葉は、明治維新の後、日本の重心が東京に移ってから使われるようになった。