将棋備忘録

殴り書きの備忘録なので、読みづらい点はどうかご容赦を!

ヨネナガの棋

華があった米長将棋

「転がる石に苔は生えない」という「流れる水は腐らない」ともいう。変わることができるうちは、人は若い。逆に言えば、変わらないということは死ぬことである。
故米長邦雄九段は、50才を過ぎてから「玉を固めて細い攻めを繋げる将棋」へと棋風改革を行い、矢倉穴熊などを駆使して宿願の名人位を獲得した。
では米長の本来の将棋は何かと言うと、「薄い玉形ですべての駒を使って攻める将棋」だった。これこそ、現代のAIの将棋感覚ではなかったか。
米長将棋には学ぶ点が多い。


下図は、対谷川戦で見せた絶妙手。


こんな飛車打ちを他の誰が指せるだろうか?
しかし、平凡に▲6二銀△4二玉▲4一銀不成とするのは、△2七歩▲1七玉△2六銀▲同玉△4四馬引きから詰む。
この飛車は一見タダのようだが、この飛車を取れば、竜の利きがなくなるので▲6二金で詰む。4二からの脱出には▲5一角がある。
△4四馬引きには▲同飛があるので、前述の自陣の詰み筋も消している。
▲6二金△4二玉▲2四銀でも勝ちだが、鮮やかさが違う。
この将棋のように終盤力では、「光速流」を凌駕していた。逆転勝ちも多い。


後年「米長道場」を開き、若手と共同研究した米長だが、著書「人間における勝負の研究」では、「人と一緒に研究してもそれは駒を触っているだけだ。」とまで極論している。
現在では豊島名人が同じ考え方かもしれない。
これだけの終盤力を身に着けるためにどれほどの切磋琢磨があったことか!

記録係米長邦雄

米長邦雄がトップ棋士に認められたのは、大山・升田三番勝負第二局(サンケイ新聞)の記録係を務めてからのこと。
両者の気付かなかった詰み筋を指摘したのだ。

先手升田の棒銀に対する後手大山の受けは、当時の定跡。
その後、早繰り銀から△5四角が定跡になり、平成になって△1四歩と銀出を拒否して右玉にするのが優秀な対策と認知され、棒銀戦法は廃れた。

図の局面から▲7六歩△8六歩に▲9六角という手筋の受けもあるが、升田は▲5八玉として△8六歩▲同歩△同銀に▲8八銀と躱す。
彼我の棒銀の働きの差が形勢を物語っている。

右銀での攻めがうまくいかず、升田は左銀を突進する。
しかし、銀挟みの△8四歩の手筋から△7三歩で進退窮まった。
銀を助けるために▲7一角△7二飛▲6二角成△同飛▲8三銀成とするのでは苦しい。
しかし、この将棋の見どころはまだまだ先だ。

△9六香捨ては、取れば△9七角成として飛車が楽になる。
ここで▲7二歩成は△6三飛と成銀取りに浮かれる。
それを嫌って升田は▲7二成銀としたが、いかにも形が悪い。
指しにくいが、▲7二歩成△6三飛に▲8四成銀として次に▲5二金と飛車に詰めろをかける順が有力だった。
しかし、大山にも疑問手があり、形勢が急接近する。

図の局面から粘るなら▲5九玉だが、升田は▲4七同玉と取って△4九角成に▲1五桂と飛車香桂で2筋を攻める。
形作りの心境だったのだろうか?大山優勢になった。

ここで▲8七銀!△同竜▲7五歩となって、ついに形勢逆転。
しかしその後二転三転する。

図の局面で、後手玉には▲2三銀△3三玉▲3四歩からの詰めろがかかっている。
3五の金がなければ打ち歩で逃れているが、単に△4六金とするのは▲同玉△6六竜に下に逃げると、角打ちから龍切りの筋で詰むが、▲3五玉と上に逃げて捕まらない。
一瞬6六の角の利きが通って怖いが、一旦△4七桂成と捨ててから▲同玉に△4六金とすれば、後の▲3五玉に△5五竜があるので先手は▲3八玉と逃げるしかない。
△6六竜とされて受けのなくなった先手は、▲3三歩△2二玉▲2三歩△1二玉▲4三金と下駄を預ける。

後手が先手玉を詰ませられるかどうか。
△4七角が筋で、取れば交換して△4八金▲3七玉△5五角で詰む。
▲2八玉にも△3七金と捨てて▲同玉に△3六角成▲同銀となったのが問題の局面。

大山は△5五角▲2七玉△3六竜▲同玉△3五歩と追ったが、詰まず無念の投了。
升田は△4八角を指摘する。
一見、▲2八玉と逃げられて詰まないようだが、△3九角成の妙手があって詰む。
大山は、△4八角▲2七玉△3六竜▲同玉△2五銀▲2七玉△2六銀▲1八玉△2七金▲2九玉△3八金に▲1八玉で詰まないと読んでいた。
そこで米長少年が、「2五金、3八銀不成で詰みです」と、金でなく銀を手持ちにすれば、△3九角成の筋でぴったり詰むことを指摘。
大山・升田両者とも銀を打って金を手持ちにするものという先入観があって、先に金を打つ手が盲点になっていた。


その後、米長は、才を認めた升田に可愛がられることになった。


厚みと勢いの米長将棋

米長将棋の基本は厚みである。
米長流の矢倉は▲4六歩から▲4五歩と攻めることが多かったし、▲7七の守りの銀を▲6六銀と繰り出す急戦を得意とし、「米長流急戦矢倉」と呼ばれた。
また、対振り飛車では居飛車穴熊でなく位取りを好んだ。

上図は、相矢倉戦から後手の羽生が左美濃の趣向を見せた局面。
現代感覚なら早く△8五歩を決めて▲7七銀なら△3三角を省略して「矢倉左美濃急戦」で戦うところ。
当時は、飛車先を保留して△8五桂の含みを持たせ、その手を玉の整備に回すというのが一般的な考えだった。
ただ一人米長だけが「飛車先を突かないというのは、男が大事なイチモツをズボンの中にしまいっ放しにするようなものだ。」と一流の表現で疑問視していた。
その後先に述べた棋風改革で飛車先不突矢倉を取り入れるようになったが・・・


この後、羽生は、△4二角と通常の矢倉に戻したが、そこに突然▲5五歩(下図)の仕掛けが飛んできた。
勢いを重んじる米長らしい一手だ。

「人生はおしなべて勢いである。なんたって、オチンチンが立っていなければ、他に何があろうと女には見向きもされない。」

米長は、居角を生かして△5五同歩に▲6五歩。
一見無理攻めのようだが、当時矢倉戦法の主流だった飛車先保留が祟り、後手は攻め合いに持ち込めない。
△6四歩と位に反発したが、手抜きで▲4五歩。△同歩なら▲6六金と守りの金を攻めに使うつもりだ。
これに△5三銀がどうだったか。▲4四歩△同銀右▲4五歩が大きい。
米長得意の展開だ。
△5三銀に▲6四歩△同銀▲2五歩と継ぎ歩攻め。対して羽生は、△5四金と中央を金銀二枚で押さえ込み、4四からの打ち込みを甘くした。
▲4六銀に待望の△8五歩が回り、攻め合いが望めるようになった。
▲2四歩と取り込み△2二歩の屈服に▲5七銀上と守りの銀を攻めに活用したのが、対局者の羽生が感心した手厚い一手だった。
玉は薄くなるが、次に▲6六銀から5筋の歩を狙う。△6五歩と受けても▲5六歩で早くなる。
そこで羽生は、△8六歩▲同歩△8五歩▲同歩△8六歩と攻め合いに活路を見出した。
▲7七角△8五飛▲8八歩となってお互いに相手の飛車先を凹んで受けることになったが、先手玉の方が一路遠い。
羽生は、△7三桂▲6六銀に△8二飛として▲5五からの突進に△8五桂を用意した。

ここで▲5三歩が素晴らしい一手。



内藤国雄とのタイトル防衛戦

有吉道夫を破って初タイトル(棋聖戦)を獲得した半年後、内藤国雄の挑戦を受ける。
当時、家でサンケイ新聞を購読していたが、紙面は初々しいクニオ対決に盛り上がっていた。
静岡県の熱海温泉「美晴館」で、第一局が始まった。


初手からの指し手
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △2三歩 ▲2六飛 △6二銀
▲9六歩 △1四歩 ▲7六歩 △3四歩 ▲3六飛 △8八角成
▲同 銀 △2七角 ▲3四飛 △4五角成 ▲3二飛成 △同 銀
▲2二角 △1三香 ▲3一角成 △7一銀 ▲3八銀 △4四歩
▲6八玉 △5四馬 ▲2二歩 △3三桂 ▲2一歩成 △同 銀
▲1三馬 △1五歩 ▲4六馬 △1六歩 ▲5六馬 △6四歩
▲5五金 △7二馬 


当時の私の印象は、先手の内藤の無理攻めを、米長がうまくいなして勝ったというものだったが、今調べてみると内藤の攻めは成功している。

図の局面では持ち駒が飛車一枚の米長が苦戦だ。
ここで▲6六馬として、▲8四香を狙えば、▲4四金の狙いと合わせて左右挟撃の態勢が作れた。


図からの指し手
▲3四馬 △3二銀 ▲4四金 △6二玉 ▲3三金 △同 銀 
▲同 馬 △1七歩成 ▲同 香 △1八歩


▲3四馬では、平凡に▲2三馬でも勝ち。△2八歩が間に合うような将棋ではない。
▲3三金と遊び駒を相手するのは変調だが、▲5六香△7四歩▲5三香成△7三玉▲5四金は△5二歩で決まらない。
本譜、後手に△1八歩くらいしか手がないようでは、先手の手駒がモノを言いそう。


ここで、先の▲6六馬も目に映るが、もっといい手がある。
▲6六歩だ。
やはり歩を使って攻めるのが将棋の基本。
次の▲6五歩が遅いようで厳しい。
これに△5四馬と受けても▲5六香△7六馬▲7七銀と自然に応接すれば優勢だ。


図からの指し手
▲3四馬 △1九歩成 ▲5五桂 △5二金打 ▲4三銀 △5一金引
▲6三香 △同 馬 ▲同桂成 △同 玉 ▲4五馬 △6二玉
▲3五馬 △2九と ▲同 銀 △7二銀 ▲3八銀 △6三銀
▲1三香成 △7二玉 ▲2二成香 △6二金左 ▲4二銀不成 


▲1三香成を間に合わせようとするのでは完全に逆転した。
しかし、図から△5二金寄は不思議な手で、なぜ△5二金上としなかったのかは謎。
▲3二成香に△8六歩▲同歩△同飛と、ついに飛車が働いた。
▲8七銀なら△8五飛が馬に当たる。
内藤は、▲3六馬と目標になりそうな馬を相手玉を睨む位置に引いたが、疑問手。
▲5三銀成ならまだ難しかった。

ここで△4八歩が、さすがの終盤力。
「左から攻めようとすれば、まず右から手をつけよ」
▲4八同金に△2四桂が狙いの一手だが、利かしが大きく先手玉が狭い。


いつくは死ぬるなり

「かつて生物学の先生から、こんな話を聞いた。生物の長い進化の歴史の中で、動物、植物を問わず、現在でも生き残っているものは、環境のに応じて自らを変えることができたものだそうだ。強いものが勝ち残ってきたのではない。変化できるものが生き残ってきたのだ。

(米長邦雄『六十歳以後』)」

もちろんこれは、ダーウィンが唱えた説ではない。
しかし、なぜ日本が過去に愚かな戦いに突入することになったか?
シビリアンコントロールが欠如していた大日本帝国憲法を改正できなかったからだ。
宮本武蔵の「五輪書」には、「いつく(変わらない事)は死ぬるなり」とある。


日本は、優秀な官僚が支えているが、「法に則って仕事する」のが官僚の本質だ。新しい部署に配属された官僚は、まず関係する法律を勉強し、それを根拠に仕事をする。
ところが、その法律のほとんどが戦後まもなく作られたものでツギハギを当てボロ隠しして、賞味期限切れのまま放置状態。
「50年も過ぎた法律は原則廃止」くらいの姿勢で見直しした方がいい。
もちろん憲法も例外でない。改正でなく、新規に作るべきだ。


勢いがない国に未来はない。
「美しい国も大事だが、新しい国を創ったほうがいい(前掲書)」